昭和52年04月30日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
私しは今朝方から、こんなお夢を頂いた。森繁久弥という俳優がおりますね、森繁久弥一座というか、森繁久弥劇団というか、そういう劇団の人がしかもやっぱり、5・60名ぐらいおられる劇団の人が、それがそのう地方公演にでかけておる。いわゆる田舎の方を廻っておる。その俳優たちの演技も出しものもよい、森繁久弥は特になら芯になるのですから、独特の演技力を持った人ですからまぁ素晴らしい、のにも係わらずあんまり評判がよくない。
ははぁあれでは中央、いうなら檜舞台と申しましょうか、やらが踏めない。どこが悪けりゃあんなに評判がよくないのだろうか。と言う様なお夢でした。私しはその森繁久弥を、私しに置き換えて考えてみた、なら私しがそんなにあのう素晴らしい演技者とという信心という訳じゃないですけれども。そうそれからその一座の俳優の方たちを、まぁここのご信者と、本当にこれは私しも感心します。
合楽の信者さん方は、どこの信者さんにも無い様なよいものを持っておられて、熱心でもあるし、御用も出来るし、またうちの修行生の方達をじっと、もうほんとにこんな修行生は又とおるじゃろうかと。信者の中でも、うちの総代さんたちなら総代さんがあるじゃろうかと、ほんとに大坪総一郎が教会長としてのおかげを頂いた、その教会長に過ぎた信者であり、過ぎた修行生ばっかりである。
のにも係らず森繁久弥劇団じゃないけれども、評判がよくない、もうどこで聞いても合楽のことを褒めるものはおらん。というふうにまぁ私は思うてみた。これは自分よがりということがありますが、我がもんが宝と言う様な、いうならば私共の表現は見方かもしれません。別に信者だけが立派で、うちの修行生だけが本当に感心すると言った様な、修行生だというな見方は、それはまぁ私しよがりかも知れない。
確かに森繁久弥は名人です。なら例えて言うなら大坪総一郎という人は、成程取次ぎ者としては名人だ、まぁ例えばですよ、まぁいうなら独特の演技力を持っておる。しかもその一座はチームワークもとれて、それぞれの個性のある演技を持って、しかもその5・60名からおろうと思われる劇団ですから、そのう皆んなが立派な劇団である。のにも係らずその地方廻りをしなければならないという事はどういうことであろうか。
中央、いうならばまぁ東京なら東京辺りを中央とする、言うなら檜舞台というのは東京辺りの大劇場であろう。という所で受け入れられず、というて地方に出て来てからもあんまり評判がよくない。どこにその原因があるだろうか。合楽の場合でもまぁ信者が育っていっておる、修行生がそだっておるという意味においては、まぁこうやって指を折ってもなら、片手の指の中に入る位ないうならごひれいを確かに頂いておる。四国じゃ二島、九州じゃまぁいまの所合楽とこうこれは、そういう意味での定評がある。
くらいに事実おかげも受けておる。のにも係らず評判がよくない。そこでですねぇ。やはりならここで修行した先生方が、まぁ布教に出るそしてその布教所、自分の与えられた場で人がどんどん助かって行く様な教会が、ここでも次から次と出来て来るおかげ、信者の中でもそれこそ中央に出て、御用の出来る位な信者、いやぁ思っとりますけどなかなか、生活がかかっとるからま思う様な御用もでけん。と言う様ないわば信者ばかりではどうにも出来ん。
そこで私しは思うんですけれどもね、お互いがひとつ本気で金光大神の言う事にそむかぬよう、よく守って信心するというところにですね、いよいよ焦点をおかなければいけない。合楽のごひれいに浴しておかげうを受けておる、まぁ例えば次から次と修行生の方達が学院にいく、もう何時も修行生の数ではトップである。今年も恐らくまぁ日本一でしょう。その点からいうて、修行生が6名もいくとこはどこもない。と言うほどしのおかげを頂きながら評判がよくない。
結局金光大神の言う事にそむかぬようよく守って信心しとれば、言うならば金光様のご信心ぶりというものが身に着いてくる筈である。金光様のご信心ぶりが身に着いてくればです、はぁ成程金光様の信心しござるが、なかなか矢張り素晴らしいなと、人間も出来て家庭の中も円満で、いわゆる教祖金光大神の言われる事を守らしてもらう信心にお互いがならせて頂いたならば、金光様のご信者ぶりというものが出来て来る、そのご信者ぶりというものだけでも、人が感じるくらいな信者にお取立てを頂きたい。
いうならば信者の中の信者としてのおかげが頂きたいという願い。ただおかげが頂きたいだけじゃなくて、そういう金光様のご信心を頂いておる者としての信者らしい信者として、お取立てを頂きたいという願い。沢山のお道の教師もあるが、その教師の中でも、いよいよ教師らしい教師、いうならば教師の中の教師として、お取立てを頂くという、私はね折角お道の教師にお取立て頂くならば、本当に教師の中の教師と言う様な教師にならなければ嘘だと思う。
折角お道の信心を頂いて、しかも合楽でならある意味において日本一と言われる様なごひれいを頂いておる、教会に御縁を頂いきながら、はぁ合楽のご信者さんは違う、というご信者ぶりというものが身に着いて来なかったら馬鹿らしい。だから願いをです、どうぞお道の教師として、教師らしい教師の中の教師ともお取立て下さいという、もう切願がねなされなきゃいけない。
だからためには、人のまねの出来ん修行もさしてもらおうと。折角教師のお届を頂いて、しだごだの教師に終わったんじゃこげな馬鹿らしい話はない。帯にゃ短したすきにゃ長し、先生先生と言われるだけで、先生としてのの資格も力もない。そんまま本当に命を神様にささげて言うならばお道の教師を志したのだから、そういう願いを持たなきゃいけない。折角お道の信心を頂いて、お道の言うならば、ただ自分のこのことを願えば、成就すれば、このことの思いを適えばと言う様な。
なおさらまでに、おかげさえ頂けばよいと言った様な、程度の低い信心からです、はらぁやっぱ金光様の信心ちゃもうコロッと違う。抜きんでたおかげが受けられる。繁盛しよるとこを見ると、あれも金光様のご信者さんげな、ここも金光様のご信者じゃさんげなというくらいな、おかげを頂きたい。ためにはどうぞおかげを頂かして下さいというしんじんからです、どうぞ信者の中の信者としてお取立て下さい、と言う様な願を持たなければいけない。
ならそこでそういう願いをまず持って、お話を頂き信心修行さして頂くならばです、おかげが受けられると思うです。ただおかげさえ頂ければよい、だからおかげ頂いたらやぁやぁいう。ほんとうに私しは思うのですけども、そういう願い、信者の中の信者、教師の中の教師、としてのお取立て頂いて、そう願わなければおられない心情を頂かなければいかんです。信者の中の信者としてお取立て下され。教師の中の教師として、お取立てください。折角教師の志をされたんじゃないか。
折角ならある意味で日本一と言われる様な、合楽教会に御縁を頂いたんじゃないか。ただそのごひれいに浴して、ただおかげを頂いておるという、おかげは本当のおかげじゃない。信者らしい信者、信者の中の信者と言われる様なおかげを頂いて、それこそコロッとしたおかげ、抜きんでたおかげ、私しは合楽が評判が悪いというのは、そういういうならまだ教会始まって10年くらいですからね、ようやくなら末永先生がここの第一号として、まぁ布教に出たくらいですから。
けども何十名の修行生がおるから、次々と出ていくなら、次々に出て行くその、合楽の教師、合楽の先生の所では人が助かり、隆々たるごひれいをまたそこで頂く事が出来ると言う様なおかげを頂いた時、ここのご信者がです、なるほど合楽の信者はコロッとしとると言う様なおかげが受けれれる様になった時に、始めて合楽が見直されるのじゃなかろうか。
問題はだから皆さんがおかげを矢張り、頂き赫々たるおかげを頂いて貰わなければ、合楽の言うならば、ほんとのまぁ評判がよいとかわるいとかの、笑うてもよいけれども、折角おかげを頂いておるのですから、それこそ人の手本になる様な信心と言われるが、人の手本になる様な信者であり、人のいうならば先生の手本になる様な先生にならねば、次から次と誕生して行く様な、おかげを頂かなければ。
今日私がお夢の中で頂いた。森繁久弥いち劇団のです、しかもメンバーも5・60名そろっておる、しかもそれぞれ演技力も持っておる。中央の中心である森繁久弥はもういうなら名人級。そういう劇団がです、どうして中央では受け入れられない、いうなら地方廻りでもしてなければならない。その地方とてもあまり評判がよくないとと言った様な、今朝の私のお夢からですね、その森繁久弥を私に置き換えてみた、その劇団の育つの方をここのいわば修行生またはご信者さんに置き換えてみた。
引き合わせてみると、もう本当に例えば総代さんでいうなら、高芝さんのごたる名総代が合楽にはおる。将来修行生にならんならん実意丁寧な総代さんがおる、どの人でもいうても他所の信者総代ならば真似のできん、と思われる総代さんがそろうておりながら。こりゃもう本当にそう思うです。昔の椛目時代に私が言っておりました、久保山先生のごたる先生が他所にはおらんでしょうが、合楽、初代のごたる先生はおらんでしょうが、上野愛子先生ごたる先生はほかにゃおらんでしょうが。
秋永先生のごたる、信徒会長はよそにはおらんでしょうが。というまぁ申しておりましたよ、いまでもやっぱそう思うています。けどもこれはならまぁ、自分の我気だとまぁ悟らしてもろうて、そういうなら立派な先生やら信者やらがです、本当、にその立派なおかげを頂き抜いた時に、始めてりっぱということが言えてくる、そこにはです私は、金光大神のいう事にはそむかん様に。まっ、言うならば天地金乃神様・金光大神あってこの世に出たんだ。
神からも氏子からも、双方からの恩人は、此の方金光大神であると、例えば言っておられるのを、またその言葉を置き換えて、いうなら合楽に大坪総一郎という先生がおられたおかげで、合楽がもしなかったらあたくしにはもう会えませんと言うほどしの、いうならおかげを受けた人は沢山合楽にゃおるです。本当にあんときにもし親先生にお届けしなかったら、どういう事になるだろうかと。
いわばおかげを受けた人は沢山あるです。あるからこそ合楽のひとつのごひれいにもなってっるわけです。けれども、合楽の名誉回復とでも言おうか、悪い評判が良い評判になってくるほどしの、おかげを頂くまでにはです、まだまだという感じである。それがただ自分よがりで言うと、立派なごとあるけども、どこで聞いても合楽の評判がよくない。合楽ここはは金光教じゃないように言う人すらがある。
それがどういうことかと、結局金光様のご信心でこういう言うならば、先生も出来た、教会も生まれた、こういう信者が抜きんでたおかげを頂いて、抜きんでた信心振りというものが身に着いてきた。どんなに見てもやっぱり金光様の信者は違うなぁと。中にわけても合楽の信者は違うなぁと。合楽の、わけても合楽の信者は違うなぁと。合楽で修行した修行生はコロッとしとるばいと、言われる位におかげを頂く為にです。
いうならば合楽でいま言われとる、合楽理念をいよいよマスターしてそれを行じていく、そのだから芯になるいわば表行を廃して、心行ひとつと。私はこの頃毎晩、晩に夜中にでて来てから思う事ですけども。これが心行をしておる人達の会堂であろうか。これが合楽で修行している修行生が、それぞれに心行をもってしておる。私が昨日渕上先生ときのう、お湯が出ませんので、こちらの新館の方のお風呂を使う。
ほれできのうもこれちょっと見てみなさい、こんほんなぬらぬらする狭いお風呂があるが、前の日もすこしばかりあった。昨日もすこしばっかりあったけれども、こげなどろどろしょる風呂ん所が、言うとってくれんね、誰が当番しょるか知らんけれども、晩出てくりゃお酒飲んだとが、あっちうろうろこっちうりうろしよる夜中に。こりゃ一生懸命ここで大払い心行しよるのに、もうてんでなにがかんだか解らんごたる状態がある。
ほっんとに私が夜中に出てこんで済むごといっちょならにゃ、ほんな事じゃないと思う、出て来ても私がどおん言わんでしょうが、いまがやがやまぁもうてを抜いたけんで裏のあっちからこう叩こうごたるけれども、そん黙って通るだけ、そして勿論本当にこれは私の重しがちっと軽うなったなと思う。修行生じゃない、こりゃ私の重しが軽うなったなとまぁ思うて、神様にお詫びをするだけですけれども。
これでは成程いつまでたったっちゃ、合楽の評判な今悪かろ。よくない筈だと。おかげ頂いとるごたるけども、裏に入ってみたらこうだという事になるだろう、そこでんなら私しが、もし皆さんの家ばわこうぐるぐる廻ってみるとするならです。やっぱし同じ様な事が言えるのじゃないだろうか。残念ですね。やっぱりこの人達にゃ水をかぶらせたり、断食をさせたりしなけりゃしゃんとせんのだろうか。と思うくらいであります。
こりゃ合楽の信者、信奉者ひとりひとりが、私しも一段と推し進めなくてはならないが、修行生らしい修行生、信者らしい信者、ためには銘々がです、どうぞ信者の中の信者とお取立て下さい。でなかったらおかげが受けられんです本当のおかげが。しかもこれほど徹底した御教えを頂いておるのですから、本気で信者の中の信者に成ろうと思うたら、合楽じゃなれれるんです。
ここで修行している修行生だって、本気で先生の中の先生だと、教師の中の教師としてのお取立て、に成りたいという願をもって願うならばです。素晴らしい取次ぎ者が出来れる教導が為されておるです。いくら聞いてもそれを守らないという事は、金光大神のいう事にそむかぬよう、金光大神のいう事に背いておるからおかげになれんのです。それも難しい事をいうとるんじゃない。
合楽理念にまとめて頂いたら、楽しゅう有難う出来るんだと。そこでなら信者の中の信者とお取立て下さい。というような切願、願いを持つならばです。やはり教えをまもらにゃおられん、信者らしゅうならにゃおられん。教師の中の教師としてお届けください。折角教師としてのお届け頂いたのですから、しだごだのそれこそ帯にゃ短い襷にゃ長しというごたる先生で終わっちゃ本当に相済まんと気付かして頂いて、本当に教師の中の教師としてお届け下さいと言う様な願を持つならばです。
言うておる事しておる事、おこのうておる事にです、所謂ここに欠けておる所の心行をです。風呂が乱れておって良かろうはずがないし、便所が汚れておって良かろう筈がない。それこそ朝の時間を大事にしなければならんのに、夜更かしをするなら誰だってきつか。それもなんじゃかんじゃ解らん様な事で夜更かしをしておる。これでは言うならば教師の為の教師に、決してお道の信心で言うおかげというのは、偶然じゃないです。
あっちの先生は、あの教会は素晴らしいごひれいがたっておるという所の先生は必ずごひれいが立つだけの力を持っとられるです。ふが良うしていうならばあんな立派な教会になったと。いうなこと絶対ないです。だから願いをです、総代しとるから信者の中の信者というこっちゃないです。合楽の言うならば評判が悪い、中央にも出られない、ある意味での実力は持っておりながら、それが評判が悪いとはどう言う訳かという事を、今日はいろいろなま角度から思うてみてです。
信者の一人一人がいうならば、信者の中の信者としての、お取立てを下さい。ただあれば頼まにゃならん、これば願わにゃならん。なるほど合楽はよその教会よりちったよけいおかげ頂く、というぐらいな衆が集まってはもう烏合の衆です。なんとはなしにです、なら合楽に段々修行生が沢山増えて来て、あれでもってどうにもならん先生ばっかり出来ちゃなぁんにもならんです。それこそ先生の中の先生に到達できて頂きたい。という願い。信者の中の信者としてお取立て頂きたい。
そういう願いを持つとですおのずとです、心行もしなくてはおられないし、金光大神のいう事にもそむかぬ様に、おかげが頂かれるのです。今日は敬神会でした、敬神会で色々お話さして頂いた中に、金光教ではもう真という事が認知しとります。誠とは誠心、とかいて誠の心と書いてある。誠の心とはどういう心かというと。これは信心は誠の追及ですから、その時その時に変わってくるんです。昨日頂いたのは、誠と言うのは、真心というのは本当の心だという事です。
本当の心というのは、もう一切を有難い、有難いでころころというなら受けて行けれる心を、真心だと言われております。此の方の信心は真心一つで助かると言われております。そこでなら自分の心を眺めてみてです、こりゃもうお礼を申し上げにゃならん事はわっかておるけれども腹が立つ。ただこれはお礼はをいわにゃん事はわかっとるけれども、心からのお礼が出てこない、ああたの心が真心じゃないからだと。
そこでなら自分の心をそれこそ、有難い方へ、有難い方へと、あれもおかげこれもおかげと頂けれる様な、心を目指さして頂くということのためにです。いよいよもって心行に取り組まなければいけんのです。金光大神を何時も自分の心の中にいれきっとなくては出来んです。外に修行はないのですから。もうそのことだけなのですから。そこにです、なら便所にいったちゃ、風呂にいったちゃね、それこそすこし綺麗ずきな人ならばです、しみが無かったちゃ、ぎりぎりいうごと磨いちゃるです。
これだけ沢山の修行生がおって、これだけ沢山の女が使っておるその、風呂場がですどろどろとして気色の悪かごとしとる。これで信心を頂いておる、これで心行心に掛けさせて頂いておる。沢山おるけんで尚更かん知れん、もう誰かがするじゃろうと思うこつかもしれん。そのだれかじゃなく、その一人ひとりが、わたしが心行がその場に、その場に現れてこにゃいけん。
昨日も、昨日晩ですから、おととい私が12時ごろここへ、いろいろ御用があってここへ坐っておりました。そしたらその暗墨の中で誰か入って来てそのう拝みよりますもん。だからうちは修行生かと思うた、わからんそこでじっと見よったら。先生あぁたこげん遅くまで起きっちゃるですかち、ちいうてからここに来ましたもん。あなたどなたですかちいうたら、小郡市から参って来ました。まぁこげな夜中にどうしてですかちいうと。ならちゃんとお初穂してから、いろんな願い事が御座いました。
ちょうどその頃終わりましたからそのそっからでさして下さいちゅてから、正面玄関から出よるもん、だからそっから上がって来とる訳です。昨日もそうでしたけども、正面玄関がこうしてあかっとるそこが、まぁ本当に私しはね、あのこの脇殿の手洗い鉢のとの東脇殿だけはだけは、夜も夜中もないですいつもあそこは開っとるです。開けとるですわたしが、いつ誰か来てお願があるから詰めん、だからあすこを詰めんからというてから、どこもここもつめんって、そんなろくそな事じゃでけんて。
外はどこでんきちっと詰めて、もう詰めてまわらにゃでけんて私じゃ言うとるけれども。詰まっとらんです。もうなちゅうなろくそなこっちゃろかと思う。毎日それも、まぁ今でもそうでしょうがこん位ばっかり開とるですそこが。だからそこから入って来とるです。もう沢山おるから、こりゃぁもう本当に、一人一人にやっぱ責任もたせてでも、もう本当なんちゅうですか、いうなら罰のひとつも設けてからです、せにゃでけんごとある事でよかじゃろかと思う。
ろくそなかねあんまり、これでは例えば、先生の中の先生ということもでけんでしょ。信者の中の信者ということにもにもならないでしょう。入って裏から勝手にのんで、またやるその信者信者と言うたけん、この頃こうまた乱れてきよる。これだけ女子の修行生がおるとに、心行ということはね、もうそれこそ水も漏らさん様な心の事を心行と言うのです。金光大神を心を掛け続けておったらそうならなければおられんです。
お道の信心は誠の追求だと、そこで自分が誠からどれくらい離れておるか、誠でないかという事をです。一切を有難い、有難いで受けられるような心の状態でない事を思うてです。いよいよ誠の追及をさしてもろうて。いわゆる金光大神のいう事にそむかぬように、よく守って信心させてもらわなければなりません。ためにはただおかげさえ頂きゃよい、まぁしだごだ今日一日がたっていけさえすればよいと言った様なことではなくてです。今日一日を充実したね。
言うならば心行に取り組み、修行に取り組ませて頂く。それにゃなら願いを変えなきゃいけない。本気で信者の中の信者にお取立て下さい。合楽の信奉者の全部がです、信者の中の信者にです、お取立て下さいと言うて願えば、その信者にお取立て頂けるほどしの、内容を合楽はもっておるんだ。森繁久弥さんがそういう演技力を持っておるということ。そういう教えを頂きながらその教えが身に着かん、それではいつまで経っても、ご信者ぶりというものは生まれて来ない。
どうぞ折角お道の教師手としておかげを頂いたんですから。お道のいうなら教師の中の教師と言われる位なおかげを頂きたいという願いをもっとるならばです。自分の部屋ん中ぐらい乱れんで済む。お部屋の前の隅々まで光り輝くするくらいに出来ん事は、私しゃないと思う。今日は私は今朝から頂いたお夢と、まぁ御理解4節からどうでもひとつ、信者の中の信者にお取立て頂けれるようなおかげ。金光大神の言う事にそむかぬ様にと言う事は、ここでは大坪総一郎の言う事にそむかぬようにと言うことだと思う。
だから大坪総一郎の言う事にそむかぬように信心させて頂くところから。赫々たるおかげもごひれいも頂かれる。そこに始めてです大坪総一郎あって、金光大神が活きて下さる、天地金乃神様が活きて下さる。大坪総一郎先生あって私しがある。天地金乃神様からお礼が言われれる位なひとつ私しを磨き出さなきゃならん。私自身もそう思う。神様のおかげ、大坪総一郎先生のおかげで、こん日のこのおかげがあるという程しのおかげを頂くために。もちっとどうぞ大坪総一郎の言うことに背かぬようにです、ひとつおかげを頂いていきたいと思います。
どうぞ。